【エッセイ】「ゆっくりする」とは

休養期間が続いている。

病院にはこまめに通っており、プライベートの事も含めて相談しているし、薬もきちんと飲んでいるのだが、自分で思っていたよりも重症だったようである。

「もう少しゆっくりして下さい」

復帰についての話もしているが、病院の先生が言うには、休養期間に入ると一度気分が落ちる時期があって、それが今なのだそうだ。

よくよく考えると、休養期間に入ってからのこれまでの方が気が張っていたようで、よっぽど活動的だったように思う。

あれからも、家族のことがあったので、酷く落ちてしまっているのは、仕方のないことなのかもしれない。

どれだけ落ち込んでいても、生活は続けなくてはいけない。

「ゆっくりする」とはあまりにもざっくりした提示であり、ぼーっとしていることもそれほど長くはできない人もいるし、ずっと寝転がっているのも辛くなる人もいるだろう。

その場合、「ゆっくりする」ためには何をしていれば良いのか、それがわからなくなる。

筋トレやランニングをする時間もある。

物書きも続けているから、それもやる。

しかし、気持ちの整理がついておらず、ガチャガチャになってしまっているせいで、落ち着くことに不安を覚えてしまう。

先日、とどまることに関する記事を書いた。

この記事にも書いたのだけれど、とどまることは今までにない選択肢だったので、いざ新しい選択肢を行おうとしても、心も体も慣れておらず、実行に移してもしっくりこないということが起こっているのだと思う。

「ゆっくり」したいのだけれど、落ち着くことができず、何か焦燥感とか不安感に飲み込まれそうになる。

まだまだ、足掻いているような感じだ。

脱出したいと、焦る必要もないのに、なぜが急かされるような感じになる。

そういう性格なのだのだから、どうしようもないのかもしれないけれど、今はじっと休んで待つほかないのだ。