【エッセイ】「素直になれる」ことと自己肯定感

「それだけ素直になれるというのが、すごいと思うんだ」

こんな言葉をもらったのは、つい先日のことだった。

友人宅に招いてもらって、宿泊までさせてもらった時のことだ。

友人とご飯を食べて、少しのお酒を飲み、楽しく話す、至って普通の飲み会なのだけれど、違ったことと言えば、僕がここの所、落ち込んでいて、どうしようもない状態になってしまっていることだけだった。

約5年付き合ったパートナーと別れたことがきっかけになって、仕事にも支障が出てしまって、そこからは、気分の上下が激しく、自分でもコントロールができていない生活が続いていた。

大きく気分が下がることも、未だに少なくなく、酷い時には死にたいと思ってしまうほどだった。

さすがに、1ヶ月もしたので死にたいと思うまで落ちることは無くなったけれど、昨年の自分のような快活とした状態にはなれそうになかった。

落ち込んでからは、休職せざるを得なかったこともあり、自分のことを考える時間も、必然的に増えていった。

すると、これまでにあまり意識しなかった言葉が、目に付くようになったことに驚いた。

それは、自己肯定感という言葉だ。

個人的には、漢字が3文字以上続くと、「何か難しそうなことを言ってそうだ」と感じてしまうのは、読書嫌いで国語の成績だけが悪かった、小中学校の自分がいるからかもしれない。

しかし、今になって自己肯定感という言葉を意識するようになったのは、やはり、心的に参っているからなのだろう。

自己肯定感は、何も難しい言葉ではないし、最近では、別に物書きでなくとも知っている言葉だろう。

自己肯定感とは、簡単にいうと、自分自身の価値とか存在そのものを、自分自身が認めたり、満足できたりすることだ。

自己肯定感が低い状態とは、まさにこの1ヶ月の僕のように、自分自身の存在になんら価値を感じることができないような状態である。

だから、「こんな生きていても価値がないのなら、いっそ死んでしまっても良いのではないか」と思ってしまうようになる。

思えば、失恋した直後、僕は食欲がなくて、数日の間も全く何も食べずに仕事をしていたし、心療内科で薬を貰うまでは、ほとんど睡眠もままならない状態になっていた。

これは、死に向かっているようなものだった。

体調を崩し、心が荒んでいくのも、無理のないことだったのだ。

自己肯定感が低いということは、下手をするとこんな状態にまで、自分を追い詰めてしまうのだ。

そして友人宅での出来事に、話は戻る。

僕は、落ちているけれど、友人とか家族といられるときには、気分も上がることがわかっていたので、友人と過ごせるとわかったときには、救われたような気持ちになっていた。

友人宅で話していると、友人の奥さんから、自分では思いもしなかった言葉をもらった。

それが最初に書いた、素直になれることについてだった。

彼女は、「もし自分が同じ状況になっても、たぶんプライドとかが邪魔して素直になれない」と言ってくれた。

ひね曲ってとらえる人もいるだろう。

でも、この言葉に救われた自分がいるのは、間違いなかった。

それは、フラれて以降全く自己肯定ができていない自分自身を肯定できるきっかけを、もらえたからだったのだろう。

素直になる。

それは、過去の僕にとっては、友人の奥さんと同じように、恥ずかしいものだったと思う。

誰かに頼らないことが、自立していて、大人で、かっこいいと、そう思っていた。

しかし、友人にも恵まれたこともあって、素直になることが、自立していないとか、子供だとか、カッコ悪いことには直結しないと気が付くことができた。

だから、落ち込んだときには、正直に「今、凹んでて」と言えるし、無理しないで過ごせる。

僕も、だれかれ構わずには表現できないけれど、気の置けない友人や、こうやって文章を介せば、素直になることができるのだ。

覚えている限りでも、大学生以降はこの性格だったから、まさか素直になることを、良いと言ってもらえるとは思わなく、驚いたのだ。

下がりきって、低空飛行していた自己肯定感が、上がるのがわかった。

ショックのあまりに、自分が見えていなかった証拠みたいなものだった。

もっと自分を認めてあげたいと、それこそ素直に思った。

友人とその奥さんには、頭が上がらない。

本当にありがとう。

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