【エッセイ】「生殺与奪の権を他人に握らせるな」が響く

こんにちは!

なつのです!

今日は近頃よく思い出す言葉について書いていきます。

「生殺与奪の権を他人に握らせるな」が響く

「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という非常に重たい言葉で始まる物語と言えば、あなたもきっとご存じの鬼滅の刃です。

鬼滅ブームには乗り遅れずに珍しくマンガを一気読みした僕ですが、この作品で一番残った言葉がこれでした。

「メロスは激怒した」と同じように始まりの一部が非常に印象的であることは珍しい事ではありません。

しかしながら「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という言葉が深く刺さって忘れられないのは、やはりその通りだと腹の底から納得しているからなのでしょう。

では、自分以外の人間が、自分の生殺与奪の権を握っている状態とはどんな状態なのでしょうか。

もっとも身近でわかりやすいのは、会社に勤めている状態ではないかと思います。

ただ、会社に勤めている全員がそうではありません。

生殺与奪の権を握られているのは、会社にぶら下がったり、寄り掛かってばかりいる人です。

かつてはぶら下がっているだけでも、寄り掛かっているだけでもよかった時もあったのでしょう。

銀行に預けておきさえすれば金利だけでお金が増えたし、人口ボーナス期には国が衰えるなんて誰も考えなかったのですから、楽な道を選ぶこともできました。

しかし、時間の流れと共に世の中は大きく変化していきました。

日本経済が地に落ちたとまでは言わないものの、少なくともおじさん達が懐かしむ様な「あの頃」では無くなりました。

それにも関わらず、世の中が変化したことを認めたくない人も多く、このまま逃げ切るだけの算段であれば辛い道など自ら選ぶ人は極少数です。

次世代へのバトンタッチなんて考えはとうに失って、いかに保守的になってリタイアできるかに焦点を当てているのです。

しがみついてさえいれば何とか生きていける、そんな状態なのです。

たぶんもう随分と長い期間しがみついて来たのですから、このまま逃げ切ることもできるのでしょう。

しかし、この状態にあっては生殺与奪の権は自分ではなく会社という他人にあります。

会社にしがみつくことは生存戦略とは言えません。

ただ縋っているだけです。

それで精一杯という事ももちろんあるでしょうが、本当にそれしか道はないのでしょうか。

炭治郎に発せられた冨岡義勇のこの言葉は、僕らにこそ刺さる言葉だったのでしょう。

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