
お別れするとは、やはり辛いことだ。
ずっとそこに居ると思っていたのに、ずっと話せたり、触れ合えると思っていたのに、そうならなかった。
自分はあくまでも自分なのだけれど、自分を構成している一部分は、関わりのある何かなのだ。
それは、人間関係だけでなく、仕事や趣味かもしれない。
その人にとって、重要であるものなら、形はどんなものでも、何であっても、その人を構成する一部になり得る。
もし、不意にそれらとお別れすることになったとしたら、どうなるだろうか。
これは昨日の出来事だ。
先週から、休養として実家に戻っていたが、明らかに今までの実家とは違う様子だった。
理由は2つあった。
ひとつは、母親の体調が優れずに痩せ細っていたこと。
昨日中に、母を病院に連れていき、病名がわかり、長い時間はかかるかもしれないけれど投薬でなんとか元気になるらしいということがわかった。
これには一安心だった。
母は、特に無理をする人だから、そこが心配だったが、頼れる先生と見守る家族が居るから、ひとまずは安心だった。
そして、もうひとつ実家の様子が違ったのは、14年もの間を一緒に過ごしてきた猫のななこが危篤状態になっていたことだった。
先週の土曜に僕が実家に着いた時には、もう既に水さえ飲めないような状態になっていて、歩くのもやっとというような状態になっていた。
ななこの弱り果てたその姿に、胸が痛くなった。
14年前、ななこは捨て猫だった。
母は昔から動物好きで、捨てられていた猫を見捨てることができなかったと言って、実家に連れて帰って来た。
実家には元々何匹かの猫がいたので、僕の家族は猫の居る生活に慣れ親しんでいて、まさに自分を構成するひとつになっていたと思う。
ななこは連れて来られた最初こそ、怯えて誰にも懐かなかったが、数ヶ月もすると悠々と生活するようになり、特に祖母と弟に懐いた。
捨て猫だったせいか、人に撫でられるのは、余り好きでは無かったようだったけれど、人のいる空間が好きで、みんなで食卓を囲む時などには、傍らにななこが居た。
田舎の猫らしく、気ままに外に出ることも多かったし、寒いような時には、人の布団の上で寝ていた。
家族だったのだ。
昨日、そんな大切な家族が亡くなった。
病院の先生からは、「寿命なのでどうしようもない事です」と言われていたから、ななこは十分に生きたのだと思えた。
ななこは、寝るように息を引き取っていたから、きっと安らかに死ぬことができたのだろう。
生きているものは、いつか必ず死ぬ。
それが、こうやって突然に訪れることだってもちろんある。
それを頭ではわかっているつもりでも、いざその瞬間に立ち会うと、心が追いつかなくなるものだ。
実家に帰って、みんなで食卓を囲んでいても、ななこにはもう会えないのだ。
「ななこは、もうおばあちゃんだから」と母や弟はよく言っていたけれど、お別れすることがこんなにも悲しく辛いことだとは、そう言っている瞬間には意識できないことだったのだろう。
大切な家族の死に、家族皆で向き合うしかなかった。
別れは、辛く、苦しく、とても悲しい。
だからこそ、今近くにいる誰かと過ごしている時間は、当たり前と思っても、本当は奇跡のようなものなのだ。
ぜひ、もう一度、その奇跡について思い返してみてほしい。