
「もしも」という言葉がある。
「もしも〇〇だったら」と未来の願望とか、過去に起こった出来事が変わっていたかもしれないなどと、考えることである。
僕らの生活には、無数のもしもが存在する。
何かショックな出来事が起きた時、人はこのもしもに囚われて苦しい思いをする時がある。
むしろ、そのような時ばかりなのではないか。
今回の僕の失恋も、やっぱり「もしも」に囚われる時間がある。
「もしもあの時、もっと優しくできれば」、「もしも、パートナーの気持ちに気が付いていれば」…
そうやって、できなかった「もしも」を後悔として、ふとしたタイミングで考えてしまう。
この「もしも」と言う考えが厄介なのは、実際の確認ができないことである。
未来の事だろうが、過去の事だろうが、「もしも」を考えたところで、どうしようもない。
過去の方がわかりやすいかもしれない。
過去に起こった事について、実際には無かった事を「もしも」の世界で考えた所で、実際にはどうなったのかは、全くわからないのだ。
例えば、僕が過去の時点でパートナーの気持ちに気が付いて何か行動を変更していたとして、今現在で思うところの僕が望むような状態になっていたかどうかというと、それも確実ではないのだ。
これは、他の「もしも」についても同じことが言えるのではないか。
もちろん、すごい近い未来を考えた「もしも」であれば、ある程度は予測可能かもしれない。
ただ、それでも「もしも」の本質は、変わらない。
今の現実では無いことを考えていると言う事実は一緒だ。
このように「もしも」を考える人は、沢山いて、「もしも」の世界観を作品にしている人も、沢山いる。
タイムスリップして、現在を変えたいと言う作品がそれにあたるだろう。
それらの中の結論の一つとしてあるのが、「結局、未来は変わらなかった」というものだ。
過去の時点で、主人公がどうあがいても、未来はそれほど変化しない。
厳しく辛いことだけれど、それが現実なのだと、伝えたかったのではないかと感じる。
しかし、このような作品に出会った時に、未来に絶望するだけの気持ちにならないのは、ちゃんと理由がある。
それは、自分が何かできるのは、過去ではなく、今以降の未来であるからであるという事だ。
どれだけ頑張っても、どれだけ嘆いたとしても、現状は何も変化しない。
これは、映画だろうと、現実だろうと同じだ。
「起こってしまったものはしょうがない」とか、そういう言葉がこの現実を表している。
結局のところ、自分が変えられるのは、今以降だけなのだ。
だから、今回の旅は、ここまでとしようと思う。
まだ体にも心にも苦しいものが残っているかもしれないけれど、いずれは向き合わなければならない事だ。
たぶん今のタイミングなら、ひとりの部屋に戻ってもなんとかなるし、これまでまともにできなかった、自分に向き合う事ができるはずだ。
これからをより良くしたいから、「もしもあの時」を一旦旅先にでも置いて行こうと思う。
また、いつか今回の旅先を訪れた時に、辛く悲しい「もしも」を懐かしく思い出せれば、それで十分だ。