【エッセイ】「孤独」の変化

ただ生活している。

今は、そのように感じる。

個人の仕事こそしているが、会社にはまだ出られるような状態でなく休養しているし、ひとり暮らしになったからという事もあって、決まった時間に何かするという感覚が薄い。

個人で稼いでいる時も、割と規則正しく生活していたから、今回のように時間を決めることもなく生活してしまっているというのは、初めてだった。

ちゃんと夜に寝て、朝起きるという最低限のところだけは守っているけれど、予定がない限りはそれ以外に時間を決めてやっていることもない。

筋トレや運動、個人の仕事さえ時間を決めずに取り組んでいるから、なんだか規則正しく生活しているように感じることができず、ただ生活していると思える。

思うままに生活していると考えれば、治療の一環とも取れるのだが、やはり生活するだけでも良い時と悪い時の波があって、穏やかな生活かと言えば微妙なところである。

自由に生活しているとは言っても、話し相手もおらずひとりで生活しているうちは、たぶん以前のような穏やかさとか、活力のようなものは取り戻せないのではないかと思うのだ。

きっと心の拠り所を求めているのだ。

時間を持て余すようになってしまったので、過去に書いた自分の文章を読み直していた。

良くも悪くも、僕はその時々に感じたままを、できるだけ自分の言葉で書くようにしていたから、穏やかな時の文章はなんだか今の自分とは別人が書いたようなものに思えた。

かつてのパートナーと暮らしていた頃に、孤独について書いた文章を見つけた時、また胸が痛くなった。

当時思っていた「孤独」と、今感じる「孤独」は大きく違う。

前者は誰かがいるという安心感のもとで自ら望んだ一時的な孤独であり、後者は不意に訪れた強制的な孤独だった。

そうは言っても、幸いにもいい友人に恵まれているから、酷く孤独であるわけではないのだが、以前の誰かが同じ空間にいてくれる暮らしを知ってしまっているから、どうしても今のこの環境を酷く孤独に感じてしまうのだ。

こう感じてしまうと、今の生活はどうしても、ただ過ごしているような虚無感に近しい何かをも同時に感じてしまうのだ。

また、悪い波が来ているのだと思う。

未だにこのような時間をどうやり過ごせば良いのかわからずにいるが、これもまた次へ進むための準備期間なのかなとも思える。

また数年もしたら、この時の文章を読み返して、「この時凹んでたなぁ」なんて思う時が来るのだろう。

今はやり過ごすしかないのだ。