【エッセイ】献身と自己満足は違うのに

車中泊を始めている。

しかし、長期に続けることは、それはそれで負担になってしまいそうなので、2泊ぐらいが良いところかもしれないが。

最近聞かなくなった、「傷心旅行」という言葉は、これにも当てはまるだろうか。

ひとりでドライブしていると、様々なことを思い出す。

それはもういなくなってしまったパートナーのことだけでなく、これまでの友人や、過去の個人的な経験なども含まれる。

その度、心が楽しくなったり、時にため息まじりのウジウジになったりするのだけれど、別に構わないと思える。

どうせ終わったことだし、今はただ運転しているか、宿泊先の見たいところでぼうっとした時間を過ごすだけだ。

これを虚無だという人もいるだろうけど、多分こういう時間が、僕には必要だったのだ。

思えば、かつてのサラリーマン期に副業を始めてからは、とてつもなく忙しかったし、一度体調を崩した時以外は、結局のところ、忙しく過ごしてきたように思う。

個人で働いている時は、時間に余裕があったけれど、あまりにも結婚を意識してしまって、同棲生活でも自分の生活を見失っていた。

献身的であることが当たり前になっていて、それをかつてのパートナーは窮屈に思っていたのだけれど、多分その窮屈さは自分自身もどこかで感じているにも関わらず、自分を納得させていたのだろう。

つまり、個人の仕事をして、そこにはパートナーもいてという生活を、のんびりとしてゆっくりとした生活だと、自分にとって最大限心地の良い生活だと思い込んできた。

でも、多分それは違った。

だから、そんな生活は続かなかった。

お互い一緒にいる事が辛いのなら、離れるのはごく自然な事だった。

かつてのパートナーには、もう何度も申し訳ないことをしたと思って、その度に心が軋み、涙が溢れた。

でも、相手だけに悪い事をしたのでなく、僕は僕自身を苦しめていた。

「献身的でなければいけない」、「一緒にいる・結婚するとはそういうことだ」と自分を縛り付けて、自分を苦しめ、それに耐えていた自分を無いものにしていた。

誰かが言った言葉が頭をぐるぐると巡っている。

「自分を大切にできない人が、誰かを大切にできるはずがない」

たぶん、これまでの僕はこの言葉を信じていなかった。

自分を犠牲にすることが、正しいのだと思っていた。

そうやって、自己犠牲を美化してきた結果は散々だった。

「自分を大切にできない人が、誰かを大切にできるはずがない」という言葉が真実で、それに当てはめるのなら、僕は最初の時点で躓いているために、大好きだったパートナーさえ大切にすることができなかったのだ。

こんなに悲しい事実もないのだけれど、結果からすると、きっとその通りだったのだ。

もし献身的であることだけが、正しいと思っている人がいれば、少しだけ自分の足元を見てみて欲しい。

もしかすると、僕と同じように献身的である自分にすがっているだけなのかもしれない。

献身的な自分であれば、そのうちうまくいくと思ってあぐらをかいて安心してしまっているのかもしれない。

そういう時も必要なのかもしれないけれど、それだけではどこかで自分の方がダメになってしまうのだ。

ぜひ、僕のように後悔せぬようにして欲しい。