【エッセイ】『禍福は糾える縄の如し』

「『禍福は糾える縄の如し』って言葉もあるからさ」

これは先日の兄の言葉である。

僕は、この週末を落ち込んで過ごした。

メンタル的にも、これほどやられているのは、久々だった。

今は、たぶん何をやっても足りないような感じにしか思えない。

ちょっと厄介な状態だ。

それでも生活しようとするなら、なんとか今の気持ちと付き合いながら、進むしかない。

こんな時には、素直に人の力を借りるようにしている。

話を聞いてくれた家族や友人たちの、優しさが、何よりも嬉しかった。

本当にありがとう。

これは、弱いのかもしれない。

ただ、こんな時に素直に相談できる家族や友人がいることは、僕にとっては間違いなく誇りだ。

だから、臆面なく頼ることにした。

家族や友人に、今の正直な気持ちを打ち明けると、話を聞いてくれたし、向こうから話してくれたことがいくつもあった。

誰の話も、いつもよりは感情的に聞いてしまったと思うから、冷静ではいられなかったけれど、一方で、心には深く刺さる言葉ばかりだった。

その中で、一番に残っているのが、次男がくれた「禍福は糾える縄の如し」という言葉だった。

恥ずかしながら、僕はこの言葉を初めて知ったのだけれど、兄からその意味を聞かされた時、心がふっと軽くなった。

「禍福は糾える縄の如し」とは、わざわいが福となり、福がわざわいのもとになったりして、この世の幸不幸は縄をより合わせたように、表裏をなすものであるという事を意味している。

つまり、悪いことばかりでも、良いことばかりでもなく、良いことも悪いことも表裏一体になっているのが、世の中だ、という事なのだ。

今の僕は、確かにわざわいの最中にいるのかもしれない。

この後にどうなっていくかは、もちろん誰にもわからないけれど、このわざわいこそが福の門を叩くためのきっかけなのかもしれないと思えるのだ。

わざわいの中にいる時に、前向きになれる人は多くない。

それは、今のわざわいがまだまだ続くと思い、絶望してしまうからである。

しかし、「禍福は糾える縄の如し」であるから、わざわいもそんなに長くは続かなく、実はすぐそこに福がきているのだ。

だから、絶望せずに、小さくとも一歩一歩進んで、少しでも前を向いていれば、自然と福と出会えるのだ。

運とか、天命とか、そんな自分ではコントロールできないものだけを信じて進めるほど、スピリチュアルな性格ではないけれど、前談のように頼れるものは頼るのも、決して悪いとは思わない。

もし、今、何かに落ち込んでいたり、わざわいの最中に身を置いているという人は、「禍福は糾える縄の如し」という言葉をぜひ知って、思い切り頼ってみて欲しい。

少しは心が軽くなるはずだ。