【エッセイ】「雨ニモマケズ」と言葉


こんにちは!

なつのです!

本日はエッセイです!

「雨ニモマケズ」が教えてくれたもの

僕はまだ死ねない。

別に重い話をしたいわけでは無いので、安心して読み進めて欲しい。

ただ、今日の話を聞いて、自分もそうかもしれないと思える人もいるだろうと思っている。

さて、本題に行こう。

あなたは、今までに胸を締め付ける言葉に出会った事があるだろうか。

偉人の言葉でも、近しい人からもらった言葉でも、胸を締め付けるように心から離れなくなったような言葉を持っているだろうか。

誰かの言葉によって、自分の行動が変化したとか、考え方が変わったという事は、ありふれているものだ。

もちろんそれは、言葉だけに限らない。

人の行動そのものに感化される事もあれば、何か絵画を観て感じとる事もあるかもしれない。

僕は言葉に大きく影響を受けている人間なので、僕の場合は言葉だったというだけである。

ただ、言葉はやはり面白いと感じる。

言葉は文字として、紙の上やデバイス上にただ羅列されているだけなのに、そこから、情景を思い浮かべる事もできるし、その文章を書いた人の心情が伝わる事だってある。

むしろ、映像や音声が無い分、より心情を表現しやすいように感じる。

これは、きっと僕だけが持つ感覚では無いと思っている。

だからこそ、これほどまでに娯楽が溢れる世の中であっても、本は無くならないし、文章で何かを伝えたいとか残したいという人も多いのだろう。

言葉を紡ぐ事は、上手も下手ももちろんあるけれど、どれも全て心情の現れであり、作品だ。

芸術と言っても良いだろうと思う。

本は言葉を読んでいるだけなのに、心が動き、時に考え、時に涙する事だってある。

それが、胸を締め付ける言葉なのである。

僕は幼い時に、母親の影響で、宮沢賢治さんの本を読んでいた。

ただ、僕は幼い時に好んで本を読むような子供ではなかったので、どれも真面目に読んでいたわけではなく、なんとなく、ぼんやりと読んでいたようなものだった。

有名な「グスコーブドリの伝記」は漫画のようになっているものがあったので、それでなんとか読めたようなものだった。

僕は今でこそ読書が好きなのだが、それは大学生になってからのことで、幼い時にはむしろ本は苦手だったように記憶している。

しかし、母親としては自分の好きな作品を読ませたいとあって、半ば強制的だったけれど宮沢賢治さんの作品に触れることが何度もあった。

小学校の時に、国語の授業は好きではなかったけれど、僕は「雨ニモマケズ」を空で言えた事で、得意になった事だけは覚えている。

当時は大して意味も分からずに、ただ母親が好きだったというだけで、覚えていたのだ。

そして、今である。

昨日の事だが、何気なく聞いていたラジオから、たまたま宮沢賢治さんの話が聞こえてきた。

「雨ニモマケズ」の話が出てきて、たかだか30歳だけれどなんだか自分の昔話を聞くように、懐古してしまった。

こんな機会も珍しいと思って、電子書籍ではあるが、宮沢賢治さんの本を手に取り、ゆっくりと「雨ニモマケズ」のページを進めた。

その時、ふと自分の胸が締め付けられている事がわかった。

音も、映像も何もない。

あるのは、言葉だけだった。

しかし、僕の心は確実に動き、涙が止まらなくなった。

この感動は複雑で、ただ懐古したからだけでも無ければ、宮沢賢治さんの生涯に思いを馳せただけでも無いし、今の自分が悲しくなっただけでも無いと思っている。

それでも、涙が溢れて仕方が無かったのは、どうしようもない事実だった。

僕が、まだ死ねないと思ったのは、こんな経験をしたのは初めてだったからであり、きっとそんな言葉に出会いたいなと思えたからである。

僕は、今のところ、結婚もしていないし、子供もいない。

けれども、母から教わった宮沢賢治さんの言葉と共に、こんな言葉にし難い経験も、まさに言葉で伝えてみたいと思えたのである。

まだ少しだけ、胸が痛む。

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