
こんにちは!
なつのです!
本日は献身に関するコラムです!
献身的とは何か
思えば僕も無理をしていたのかもしれない。
最近になって気がついたことなのだが、僕はここ数年は好きなものを好きと言えずに我慢していた部分が多かった。
それは誰かと暮らすためには絶対に必要なことであり、なぜか自分はそれを我慢するのが得意だと信じ込んでいた。
つまり、誰かの趣味に合わせることや、生活スタイルを同調させることが誰かと生活する上では必須条件だと感じていたのだ。
これは全否定されるようなことでは無いことも知っているが、それだけではダメだということだ。
実際、今年の初めまでは誰かと暮らす生活をしていたのだけれど、結局はひとり暮らしに戻る事になった。
これはたぶんだけど、誰かに合わせることができなかったからでも、好きなものを素直に好きと言わずに我慢できなかったからでもない。
むしろ逆で、相手を優先しすぎて自分を大切にしなかったのが原因なのだ。
誰かに合わせることも、好きなものを素直に好きと表現せずに我慢することも時に必要だ。
しかし、献身的になっているつもりで自分を犠牲にしていれば、根本的な無理が生じる。
本当はやりたいことがあるにも関わらず、相手に尽くすような時間ばかりが増えていき、それらに時間を占領される。
時間は唯一有限だから、献身的になり過ぎて自分の時間のほとんどを差し出せば、当然自分がやってみたいことは後回しになる。
何度も言うようだが、こんな生き方が全て悪いわけではない。
かくいう僕だって、また素敵なパートナーと知り合えば献身的になって、その状態に居心地の良さを覚えるようにだってなるだろう。
誰かに尽くすことが好きで、そうしてしまうのもひとつの才能なのだから、一概には言えない部分があるのも事実なのだ。
ただし、誰かに尽くす時に自分を大切にできていないと、尽くす相手がいなくなった時にそこには執着が生まれる。
この執着は尽くした相手に生まれているようで、実は違う。
相手に尽くしている自分自身に執着しているのだ。
異様なまでに献身的で、自分を犠牲にしていれば、自分の存在価値を自身の中に見出せなくなる。
ずっと献身的に過ごせれば良いのだが、その対象が突然に姿を消すことだって少なくない。
子供が巣立った、恋人と別れた、誰かと死別した。
人に限った話では無いので、事の大小はあれど別れなんて人生の中で無数に存在する。
その時に自分自身の存在意義を誰かに頼っていると、自分を見失うことになる。
するとここ数ヶ月で僕が経験した、胸にポッカリと穴が開いたような感覚になる。
この衝撃は人によっては酷く辛い状態を作り出してしまうから、できれば経験したくないことだろう。
では、僕はひとりの経験者として何を伝えることができるのだろうか。
答えとは到底言い切れないけれど、好きなものを好きと表現することはひとつの解として腹落ちしている。
先に書いたように、昨年までの僕の生活は間違いなく楽しかったものの、相手に合わせることに自分の存在価値をおいてしまっている部分が大半だった。
好きなものを好きと表現せずに、生活の中で我慢をしてきた。
お笑いが好きなのになぜか相手に合わせて、同じ空間ではお笑いとは違う何かを観ていた。
ドライブすることが好きなのに、相手が行かないというと家にとどまってとにかく一緒の時間を過ごそうとしていた。
こんな生活をしていたから、別れた当初は「相手に窮屈な思いをさせてしまった」とばかり思って自分を責めていたけれど、これは半分正解で半分間違いだった。
自分も無理をしていた部分があったのだと気がついた。
もっと素直に好きなものを好きと表現して暮らせばよかったのだ。
皮肉にもひとり暮らしに戻って、心が落ち着いてきてようやくそんな大切なことに気がついたのだ。
よく「自分を大切にできなければ、誰かを大切にすることはできない」などと言うけれど、本当にそうだと実感した。
自分に尽くすということも重要なのだ。
これに気がつくことは渦中に居れば心地良いので困難なのだが、自分は尽くす方だと思うならば自分自身に尽くしているかも確かめてみて欲しい。
【本日の参考書】
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