
こんにちは!
なつのです!
本日は見栄に関するコラムです!
カッコつけるだけのカッコ悪さ
休日を使って改めて考えた事がある。
それは本当に好きな事についてである。
僕はこれまでにも自分の好きな事には積極的に取り組んできたと思っている。
登山の気持ち良さを知って好きになったし、高校生まであれだけ嫌いだった運動もダイエットきっかけでチャレンジしたランニングのおかげで今では好きなものの一つである。
では、何を改めて考えたのかという事である。
簡単に言えば、見栄のために好きになったものはなかったかという事である。
例えば、旅行。
僕は今でも旅行が好きである事は間違いない。
コロナが明けたら行きたいところもいくつもある。
ただ過去の旅行を振り返ると、全く楽しめなかった旅行もある事に気が付くのだ。
旅行という性質上はそれらが全くの無駄になるということはないけれど、それでも格好をつけるためだけの旅行は行った事すら後で思い出したくもない方に分類されたりもした。
「休みはどう過ごしているの?」「いつも旅行に行っています」と答えたいがために、つまり見栄を張りたくて旅行に行った実績作りをしていたようなものなのだ。
皆が憧れるような場所の写真をとってSNSに投稿した事もあったが、共有するという感覚ではなく「こんな所に来られるんだぜ!」「どうだ凄いだろう!」と見栄を張っていた部分が大きいと感じる。
思い返すと大抵そういう状態になっている時はその前の段階で何かに影響されて、そこが話題になっているから行ってみたいと思っているに過ぎない。
本当に理由があって行きたい場所とは少し温度差がある。
これはあくまでも僕の一例なので、個々人では感覚も違うだろうからそこはぜひご自分で考えてみてほしい。
つまり、人の視線とか評価を気にして無理やり好きだと思い込んでいるものは無いかという事である。
それがきっかけになって本当に好きなものになったというなら何も問題はないけれど、これらには大抵どこかで違和感を覚えるはずだ。
案外、本当に好きなものは誰かに見せびらかす事なく密かに続けているものである事も多いのではないか。
僕はラジオが昔から好きだけれど、かなりのリスナーがいる番組の話でさえ何かきっかけが無いと話題にしない。
それは今までに「好きなものはなんですか?」と聞かれて、「ラジオです」と答えても会話が続かない事が多かったからだ。
しかしだからと言ってラジオが嫌いになる事は無かった。
たぶんこれが本当に好きという事なのだ。
誰かの視線とか評価などは全く気にしていないのがその重要な証拠となっているように感じる。
無理に好きなものを否定する必要はないけれど、たとえ好きなものにかける時間でも時間である限りは有限だ。
できれば無駄遣いしたくないと思うのは自然な事で、何も悪くはないだろう。
外に出にくいご時世にこそ考えてみてはいかがだろうか。
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