【コラム】努力する意味とは

こんにちは!

なつのです!

今日は努力について書いたコラムです。

暑苦しさのある内容になってしまったかもしれませんが、参考になれば嬉しいです。

努力する意味とは

どうして努力するのかと聞かれたときに思ったことをそのまま書いていく。

先日、会社でコンサルの方との面談があった。

「会社への不満はないか」「会社をどんな風にしていきたいか」などのようなことをいくつか聞かれ、1時間ほども話した。

僕にとっては会社員の仕事というのはいくつかある中の柱のひとつなので他の社員とは少しだけ感覚が異なるのかもしれないが、どの質問にもありのまま感じることを答えた。

その質問の中に「どうして努力すると思いますか」というものがあった。

何というかそういうコンサルさんなのだ。

こういうことに関して面談で答えが出るとは到底思えないが、向こうからしてみたらそんなに接点のない社員ひとりひとりが何をどう考えているのか知る良い機会なのだろう。

さておき、ではどうして努力するのかを改めて考えてみる機会となった。

何のために努力するのかといえば、自分のなりたい姿があったり、守りたいものがあったり、欲しいものがあったりしてそれらを自分のものにするためだ。

これは抽象的な答えだけれど、きっと努力することに対する意味付けなんてそんなものなのだろう。

会社で努力する意味合いは、ほとんどの場合お金を稼ぐためである。

やりがいだとか、人のためになどということを言われそうだけれど、たぶんそういうことをいう人でも無償では会社で働きたいとは思わないだろう。

会社で働き、お金を得て、生活をする。

そのために努力しているのである。

「辛い世の中、泳ぎ切るのが精一杯」というような歌詞を聞いたことがあるが、まさにその通り。

泳ぎきるために努力するのである。

厳しい現実だけれど、それが事実なのだ。

それでは希望がないようにも思えるが、僕はそう思わない。

逆を考えて見てほしい。

全く努力せずに余裕のある暮らしができている人はいくらでもいるが、彼らは何を感じているのだろうか。

これは僕がかつて聞いただけの話だけど、何もなくただ暮らせるというのは張り合いのない陳腐なものになるらしいのである。

お金がただあるだけで、それを得るために自分は一切の努力をしていないということだから生活に張り合いがないのは当然のことである。

この場合だと、自分でお金を稼いだとしても汗水流してお金を稼ぐことそのものが陳腐に思えてしまって結局努力などには結び付かないから厄介なのである。

生活に張り合いがないというのは思っているよりも辛いことで、それこそ長い人生を謳歌することが辛く悲しいものになる可能性があるのだ。

もちろん今日書いた例は両極端なものであることは承知の上である。

つまり中間的な位置にいる人ほどより良く努力しているということである。

これは「だから頑張れ」というようなメッセージではない。

ただ生活するためだけでなく、生活に張り合いが持てないレベルでもない、そんな人達は努力をすることで心地よくきっかけを掴んでいるということである。

努力していないと巡ってこないチャンスや、努力していたからこそ堂々と掴めるチャンスというものが少なからず存在する。

それに気が付けるのは当人がいつものように努力しているからなのである。

努力は準備とも言い換えられるのではないかというのが、今の僕の結論だ。

「幸運の神様には前髪しかない」という言葉は有名であるが、つまり準備したものしかチャンスが巡ってきた時に飛びつけないということである。

努力はそのためにある。

短期間で努力が報われにくいのもこれなら納得できる。

チャンスが訪れる前に努力をやめてしまっているというだけなのだ。

努力などというといかにも暑苦しいものに思えるが、多くの人は少なからず努力している。

より良く努力をしたいと思うのなら、自分にとっての努力とは何かを考えてみるのも面白いかと思う。

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